伝記
プブリウス・セプティミウス・ゲタは、ローマ帝国の皇帝である。189年3月7日にローマで生まれ、211年12月に没した。没日は26日とされるが、19日、25日、26日ともいわれて揺れがある。兄カラカラとともに共同皇帝として即位したが、その治世は同年のうちに兄の手で終わった。
父は、193年に皇帝となったセプティミウス・セウェルス、母はその後妻でシリア出身のユリア・ドムナである。父はアフリカの生まれで、マルクス・アウレリウス帝とコンモドゥス帝のもとで重要な経歴を築いた人物であった。ゲタは父方の祖父の名を受けた。兄カラカラは188年4月4日の生まれで、彼より約11か月年上である。ゲタが生まれたとき父はローマにおり、属州で生まれた兄と違って、首都に滞在中の出生だったと考えられている。父は内戦を制して帝位に就くと、カラカラを副帝に叙任し、後継者であることを内外に示した。このことが兄弟の仲を裂いたと見なされ、二人は互いを憎むべき政敵として忌み嫌ったという。ヘロディアノスは、二人が音楽や見世物、闘鶏の好みをめぐってさえ絶えず争ったと伝える。197年には父の対パルティア遠征に兄や母とともに従い、199年から202年にかけては東方の属州やトラキア、モエシア、パンノニアを巡った。202年から203年には父や兄と北アフリカを訪れ、父の生地レプティス・マグナで冬を過ごしたが、そこには彼をたたえる像が今も残っている。宣伝は兄弟の不和を隠そうとしたが、うまくいかなかった。カラカラの義父である近衛長官プラウティアヌスも兄弟の憎しみを抑えようとしていたが、彼が殺された後は、ディオによれば誰も若者たちを止めなかった。野心家だった母ユリア・ドムナは兄弟の争いに悩み、仲裁に奔走した。父は二人に共に執政官を務めさせ、劇や物語を引いて仲良く暮らすよう説いたともいう。ゲタは、副帝として父に認められたが、その時期は198年とも209年ともされ、209年末か210年にはアウグストゥスの称号も与えられて、兄と対等になった。それでも兄との差は大きく、ゲタが兄と並ぶまでには、ほぼ12年を待たねばならなかった。
セウェルス朝は、異民族との戦いのさなかにも皇帝一家を「理想的な家庭」として宣伝したが、実際には家庭内に対立を抱えていた。209年、皇帝一家はブリタンニアへ渡り、父とカラカラが前線に出る間、ゲタは母とともにエボラクム(現在のヨーク)にとどまり、属州の民政を担当した。211年2月4日、父は同地で病没し、遺言によって直ちにカラカラとゲタが即位した。
この共同皇帝制は成功しなかった例のひとつである。兄弟は、官職の任命から法の解釈に至るまで、あらゆる分野で激しく対立した。いくつかの歴史書は、二人が帝国を二分する案まで出したと伝えるが、母がそれを阻んだという。同年の終わりにカラカラは弟の殺害を決意し、何度か暗殺未遂を引き起こした末に、母が用意した和解の場で、ゲタはカラカラと結んでいたケントゥリオ(百人隊長)に刺殺された。
ゲタは兄に殺されたうえ、「ダムナティオ・メモリアエ(記録抹殺の刑)」によって、記録や像を消された。父が描かせた家族の肖像からも、ゲタの顔だけが削り取られた。ゲタに近かった貴族たちも、容赦なく粛清された。彼の生涯は、2024年の映画『グラディエーターII 英雄を呼ぶ声』にも登場し、ジョセフ・クインが演じた。
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