HISTORICAL PERSON · 217年没

カラカラ

ローマ帝国セウェルス朝の第2代皇帝。全属州民に市民権を与えるアントニヌス勅令を出し、カラカラ浴場も建てたが、暴君の一人としても記憶される。

生涯
217年没
死亡地
トルコ共和国(シャンルウルファ県 / ハラン遺跡)
出生地
ガリア(ルグドゥヌム)
出典
世界地図
トルコ共和国(シャンルウルファ県)

伝記

ルキウス・セプティミウス・バッシアヌスは、ローマ帝国の皇帝で、セウェルス朝の第二代の君主である。188年4月4日に生まれ、217年4月8日に没した。本名よりもカラカラという渾名で呼ばれることが多く、歴史学者たちもそう呼んでいる。初代君主セプティミウス・セウェルスの長男で、ローマ史上に残る暴君の一人として記憶される。一方で、全属州民にローマ市民権を与えるアントニヌス勅令を発布し、結果として民族や人種による出自差別を取り除いたことでも知られる。

ガリアのルグドゥヌムで、元老院議員を兼ねる軍人セウェルスと、後妻であるシリア出身の神官家系の娘ユリア・ドムナの長男として生まれた。カルタゴ人とアラム系シリア人の混血で、風貌にもその血統が強く現れていたとされる。父が内戦を制して即位すると、先代王朝のアウレリウス氏族との関連を持たせるため、マルクス・アウレリウス・アントニヌス・カエサルと改名したが、ほとんどの人は彼をカラカラと呼んだ。これはガリア地方独特のフード付きチュニックのことで、幼少期から好んで着ていた服装だった。209年、弟ゲタとともに父から共同皇帝に指名されたが、実質的な権限はまだ持たなかった。

211年、父がカレドニア遠征中にブリタニアのエボラクムで病没すると、兄弟は実権を握り、父の戦争を早々に切り上げてローマへ戻った。兄弟はそれぞれ独自の統治を望んで激しく争い、帝国を二分する計画まで立てたが、母ユリア・ドムナに反対された。同年、カラカラは近衛兵隊を抱き込み、母が用意した和解の場で弟を殺害したと伝えられる。ゲタは母の腕の中で息絶えたという。彼は「弟から身を守った」と主張したが、先に仕掛けたのはカラカラの側だったとされる。さらに元老院に命じて弟の名誉の抹殺を行い、貨幣や絵画からゲタの姿を削り取らせ、ゲタに好意的だった貴族や元老院議員、亡父の重臣も含む大勢を処刑した。

資金確保のため、デナリウス銀貨の銀の含有量を56.5パーセントから51.5パーセントに減らし、2デナリウス相当とするアントニニアヌス銀貨を新たに採用した。その結果、貨幣価値が下がってインフレーションが進んだ。213年にはアレマンニ族の攻撃が激化した西方国境へ親征し、マイン川の戦いで戦術的勝利を収めたが、本拠地は落とせず、和解金を払う講和を選んだ。元老院は国境問題を解決したとして称号を贈った。同じころ母の故郷のシリアなど東方属州へ赴き、以後、暗殺されるまでローマへ戻らなかった。212年に発布したアントニヌス勅令は、カッシウス・ディオによれば税収拡大が目的だったとされる。東方ではアレクサンドリアで、弟殺しの弁明を揶揄する詩が流行したことを聞き、民衆を集めて虐殺させた。ディオの記録では二万人以上が殺されたという。また父に倣って軍を優遇し、軍団兵の年俸は675デナリウスにまで高められたが、財政の大きな負担になった。ヘロディアヌスによれば、216年にパルティアとの戦争を計画し始め、並行して自らの名を後世に残そうと数少ない業績であるカラカラ浴場を建設したという。

216年の夏にパルティアへの親征を始め、翌年の遠征に備えてエデッサで越冬した。217年4月8日、カルラエ近郊の神殿へ向かう途中、道端で用を足していたところを近衛兵ユリウス・マルティアリスに刺殺されたとされる。数日前に親族が無実の罪で処罰されたことへの復讐だったという。子がなくセウェルス朝は一旦断絶し、近衛隊長官マクリヌスが即位した。

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