HISTORICAL PERSON · 222年没

馬良

馬氏五常の四男で、眉に白い毛があったことから白眉と渾名された政治家。兄弟の中で特に優れ、その故事が優れた人を指す白眉の語源となった。呉への使者で孫権に厚遇され、夷陵の戦いで戦死した。

生涯
222年没
死亡地
中華人民共和国(湖北省 / 宜都市)
出生地
中華人民共和国(宜城市)
出典
世界地図
中華人民共和国(湖北省)

伝記

馬良(字は季常)は、後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家である。荊州襄陽郡宜城県の人で、章武2年(222年)に没した。「馬氏五常」と呼ばれた五人兄弟の四男で、馬謖の兄にあたる。字の「季」から四男と推測されるが、馬謖以外の兄弟の名や事蹟は伝わらない。子は馬秉である。眉に白い毛が混じっていたことから「白眉」と渾名された。五人の兄弟は字にいずれも「常」の字を用い、みな優秀との評判をとったが、中でも馬良が特に秀でており、「馬氏の五常、白眉最も良し」といわれた。この故事から、同類の中で特に優れた人や物を白眉と呼ぶようになった。

209年ごろ、劉備が劉琦の死後に荊州を支配するようになると、馬良は馬謖とともに従事に取り立てられた。劉備が蜀に入る際には馬謖が随行し、馬良は荊州に留め置かれた。その後、諸葛亮も劉備に随行するため荊州を離れたが、このときも馬良は荊州に残った。馬良は雒城を攻略したとの知らせを聞くと、諸葛亮に祝いの手紙を送り、その中で諸葛亮を「尊兄」と呼んでいる。裴松之は、二人が義兄弟の契りを結んでいたと推測している。益州の平定後は左将軍掾となった。

建安20年(215年)、荊州領有をめぐる争いが決着しないことに業を煮やした孫権の命で、魯粛・呂蒙・甘寧らが長沙・桂陽・零陵の三郡を襲撃した。関羽は3万の兵を指揮して益陽に布陣し、馬良もこれに同行したという。のちに呉へ使者として赴くことになったとき、馬良は諸葛亮に取り成しの手紙を書くよう頼んだ。諸葛亮はまず馬良自身に紹介文を書かせてみることにし、馬良の作った草稿は史書に載っている。そこには、自分は荊楚の地の幸運な才ある者で、行動は軽率なことがあるが物事をやり遂げる徳はある、といった趣旨が述べられている。孫権は馬良を厚遇したという。

建安25年(220年)に劉備が蜀漢の初代皇帝に即位すると、馬良は侍中に任じられた。章武2年(222年)、劉備の呉征伐に従軍し、武陵蛮を味方に引き入れる任務を与えられた。馬良がよく務めを果たしたため、異民族の頭領たちは蜀の官位と印綬を与えられた。劉備は夷道の猇亭まで進み、陣営を連ねて布陣していた。その後、蜀軍は夷陵の戦いで大敗し、馬良も戦死した。享年は36とも35ともいわれる。益陽市の市史や伝承では、帰順した異民族を率いて主戦場へ向かう途中、益陽県城付近で歩騭・甘寧の軍と遭遇し、異民族軍は呉軍に勝ったものの、劉備と陸遜の本戦を見ることなく亡くなったという。益陽市の資陽区には「馬良村」「馬良湖」など、馬良の名を残す地名がある。

馬良の死後、劉備は子の馬秉を騎都尉とした。陳寿は馬良を清廉で誠実、優れた人物と称えて令士と呼ぶにふさわしいとし、董和・劉巴・陳震・董允とともに蜀の最良の臣の一人に数えた。楊戯の季漢輔臣賛も、馬良の誠実さを称え、広く志を伸ばした荊楚の優れた人物と評している。小説『三国志演義』では、伊籍の推薦で出仕し、関羽を補佐する文官として登場し、関羽が毒矢の手術を受けるとき碁を囲む場面や、関羽の窮地に伊籍とともに成都へ援軍を求める使者となる場面が描かれる。雒城で苦戦する劉備と龐統のもとへ、諸葛亮が天文に凶兆を見たと知らせに行く場面もある。夷陵の戦いでは、劉備の布陣に疑問を持って諸葛亮の意見を求めに赴くが間に合わず、劉備は陸遜に大敗する。ただし馬良は戦死せず、諸葛亮の南征中に亡くなったことになっており、史実とは異なる。

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