HISTORICAL PERSON · 222年没

馬超

足に矢を受けても戦い続けた勇猛な将軍。関中で曹操の西征に反発して韓遂らと造反し敗れ、羌胡の支持で涼州に再起したが士大夫に離反されて拠点を失い、流浪の末に身を寄せた劉備の下で厚遇された。

生涯
222年没
死亡地
—
出生地
中華人民共和国(陝西省 / 興平市)
出典
世界地図
中華人民共和国(陝西省)

伝記

馬超(字は孟起)は、後漢末期から三国時代にかけての将軍である。熹平5年(176年)に生まれ、章武2年(222年)に没し、威侯と諡された。司隷右扶風茂陵県の人で、後漢の名将馬援の後裔とされる。祖父の馬平は桓帝の時代に天水郡で官に就いたが、官を失ってからは隴西郡に留まり、羌と雑居して貧窮の中、羌の女性との間に父の馬騰をもうけた。馬騰は中平元年(184年)の隴右の叛乱に際し、州郡の討伐兵募集に応じたが、中平4年(187年)には韓遂による涼州刺史の殺害に乗じて反乱に加わった。こうした父祖の経歴から、馬超は実質的に涼州人と見なされる傾向があり、羌の血を引いて非漢族とも深い関係があった。

馬騰は董卓の招きに応じて韓遂とともに従ったが、董卓が暗殺されると李傕に投降し、のち征東将軍となった。興平元年(194年)に李傕との関係が悪化して長安襲撃を図り、露見して涼州に戻った。義兄弟として友好だった韓遂とは建安初頭に衝突するようになる。馬超は当時から勇健で知られ、韓遂麾下の閻行に矛で刺されそうになった際、矛が折れ、その折れた矛で首筋を殴られて危うく命を落としかけたという。

建安7年(202年)、袁尚が派遣した高幹・郭援が南匈奴の単于と合流して河東に侵攻すると、曹操は関中の諸勢力を味方に引き入れようとした。馬騰は郭援らと内通していたが説得されて転向し、馬超を1万余の兵とともに鍾繇のもとへ送った。馬超は督軍従事に任じられ、平陽で龐徳らとともに郭援らと戦い、足に矢を受けながらも傷を袋で包んで戦い続け、敵軍を大破した。この功で徐州刺史、のちに諫議大夫を拝命した。建安13年(208年)、曹操は馬超を辟召したが、馬超は応じなかった。馬騰は入朝して衛尉となり、馬超は偏将軍・都亭侯となって父に代わり軍勢を率いた。一族は鄴に移され、事実上曹操の人質となったが、馬超は父から継いだ部曲とともに領地に留まり、韓遂とともに関隴の中心勢力となった。

建安16年(211年)3月、曹操は鍾繇・夏侯淵に漢中の張魯討伐を命じた。高柔や衛覬は西方の諸将が疑って反乱を起こすと諫めたが、曹操は強硬な方針を採った。反乱させて征伐の名分を得る狙いだったとも解釈される。馬超は遠征から戻った韓遂を都督に立て、韓遂を父とすると語ったとされ、馬超・韓遂・楊秋・成宜ら10の軍閥が挙兵した。氐王らも馬超に従い、10万の軍勢で潼関の西に布陣した。軽装騎兵と長矛の部隊は涼州兵の系譜を継ぎ、諸将に脅威と見なされた。閏8月、渡河中の曹操を馬超が歩騎1万余で急襲し、曹操は許褚に救われてようやく渡った。曹操は「馬の小僧が死ななければ、私には葬られる土地も無い」と語ったという。

9月、曹操は賈詡の進言で離間の策を用い、韓遂が内通しているように見せかけた。単騎の会談で馬超は曹操を襲おうとしたが、許褚がいたため実行しなかった。馬超らは韓遂を疑い、統帥の乱れた連合軍は包囲されて大敗した。馬超は涼州へ逃れて諸戎を頼り、楊阜は曹操に警戒を促したが、曹操は引き揚げた。建安17年(212年)1月、馬超が諸戎の首領を率いて隴上で蜂起すると、冀県を除く漢陽の郡県はすべて呼応し、涼州刺史の韋康が治める冀城を包囲した。5月、馬騰は馬超の反乱に連座して三族皆殺しとなった。馬超は涼州で再起を果たしたものの現地の士大夫らに離反されて拠点を失い、流浪の末に身を寄せた劉備のもとで厚遇されたとされる。

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