伝記
賈詡は、中国の後漢末期から三国時代にかけての政治家で、字は文和という。涼州武威郡姑臧県の人である。董卓、李傕、段煨、張繡に仕えたのち、曹操と曹丕の二代にわたって重臣として活躍した。若いころはほとんど評価されなかったが、漢陽の閻忠だけは、張良や陳平のような智謀の持ち主だと高く評価した。孝廉に選ばれて郎となったが、病のため辞職し、帰郷の途中で氐族の集団に捕らえられた。同行していた数十人はみな殺されたが、賈詡は異民族に威名が知られていた太尉段熲の親族だと偽り、自分を殺したあと手厚く葬れば、家から必ず遺体を引き取りに来ると遠回しに脅した。氐族は驚いて彼を解放したという。董卓が洛陽に入ると、太尉掾、平津都尉、討虜校尉となり、陝に駐屯する牛輔の軍に付けられた。192年に董卓が呂布や王允に殺され、牛輔も死ぬと、賈詡は牛輔の下にいた李傕らに策を授けて長安を攻めさせ、呂布を追い出し王允を殺して長安を奪回させた。
長安に入った賈詡は、李傕らが封侯や尚書僕射の地位で功に報いようとしたのを辞退し、尚書として人事を担当して人々を助けた。仲間割れが起こりそうになるたびに賈詡が止めたが、母の喪で官を去ると争いが起こり、長安は破壊された。のちに献帝が長安を脱出し、大臣たちが殺されずに済んだのは賈詡の力によるものだった。賈詡は同郡の段煨を頼って華陰に赴いたが、段煨が実権を奪われるのを恐れていると察し、南陽の張繡の招きに応じて仕えた。張繡には劉表との同盟を勧め、自ら会見して同盟を結んでいる。
建安2年(197年)、張繡は曹操に攻められて降伏したが、曹操が張繡の族父張済の妻を妾にし、さらに張繡の暗殺を図ったため、反乱を決意した。賈詡の計略で曹操軍を奇襲して大破し、曹昂、典韋、曹安民を戦死させた。建安4年(199年)、官渡で曹操と袁紹が対峙すると、袁紹は張繡を誘った。張繡が応じようとすると、賈詡は曹操に降るよう進言し、曹操は天子を擁していること、弱小だからこそ味方を厚遇すること、天下を狙う者は私怨を捨てて徳を示そうとすることを理由に挙げた。張繡が従うと、曹操は言葉どおり彼らを礼遇し、賈詡は執金吾、次いで冀州牧、参司空軍事となって、曹操の参謀として働いた。
官渡の戦いでは、袁紹軍の許攸が降って烏巣の守りが手薄だと明かしたとき、側近の多くが疑う中、賈詡は荀攸とともにこの意見を支持した。曹操は自ら歩騎5千を率いて奇襲を成功させた。建安16年(211年)の潼関の戦いでは離間の計を進言し、馬超と韓遂を不和にさせて撃破した。後継者の選定を曹操に問われたときは沈黙し、理由を問われると、袁紹と劉表の父子のことを考えていたと答えた。長子以外を後継にして国を乱した両家を暗に示したもので、曹操は大笑いして曹丕を太子と定めた。賈詡は古参でないのに策謀に長けているため疑われることを恐れ、門を閉ざして私的な交際をしなかった。
220年に曹丕が魏王となると、賈詡は太尉に任じられた。曹丕から蜀と呉への戦略を問われると、劉備には手腕があり諸葛亮が国をよく治め、孫権は真偽を見抜く力を持ち陸遜が情勢をつかんでいる、今は文を先とし武を後にすべきだと、性急な侵攻を戒めた。しかし曹丕は従わず呉を攻め、大きな成果を得られなかった。223年6月、77歳で病没し、粛侯と諡された。陳寿は荀攸と賈詡を、打つ手に失策がなく事態の変化に通じ、前漢の張良や陳平に次ぐと評した。一方、裴松之は、董卓の死後に長安攻略を進言したことが人民に苦難を強いたとして厳しく批判し、荀彧や荀攸と同じ列伝に並べたことも誤りだとした。