HISTORICAL PERSON · 230年没

ウルバヌス1世 (ローマ教皇)

3世紀前半のローマ教皇でキリスト教の聖人。ドイツのフランケン地方ではブドウとワインの守護聖人として名高く、殉教日の5月25日には豊作を占う祭が行われたが、のちに教会や領主が禁止令を出した。

生涯
230年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(ローマ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ウルバヌス1世は、222年頃にローマ司教に選ばれ、230年8月21日に没したとされるローマ教皇であり、キリスト教の聖人である。生年は不明で、165年頃とする説もある。この教皇についての確かで記録された情報は乏しく、生涯の多くは謎に包まれており、そこから多くの神話や誤解が生まれた。それでも、在位年代が確実に定められる最初の教皇であるとされる。主な資料は、エウセビオスの『教会史』と、カリストゥスのカタコンベにある、その名を記した碑文の二つである。『教皇の書』によれば、彼はローマの出身で、父の名はポンティアヌスといった。エウセビオスは、前任の教皇の死後にウルバヌスが司教に選ばれ、八年間教会の長を務めたと記している。リベリウス教皇表では、教皇位の始まりを222年、終わりを230年としている。

彼が教皇となったのは、皇帝エラガバルスが暗殺された年であり、在位はあらゆる宗教に好意的だったアレクサンデル・セウェルス帝の治世に重なる。歴史家アエリウス・ランプリディウスは、この皇帝がキリスト教徒に問題を起こさなかったと述べる。皇帝の母ユリア・マンマエアは、アンティオキアで会ったアレクサンドリアの神学者オリゲネスの友人で、皇室はキリスト教の儀式を受け入れたとされる。このためキリスト教徒は完全な平和の時代を過ごしたが、法的な地位は変わらなかった。皇帝は、教皇と居酒屋の主人たちとの土地をめぐる争いでも、ローマのキリスト教徒を守ったという。在位中に教会の財産は増え、3世紀前半にローマの各カタコンベが拡張されたことは、信者数が大きく増えたことを示している。一方、史上最初の対立教皇とされるヒッポリュトスが起こした分裂は、彼の時代にも続いており、ヒッポリュトスはライバルのキリスト教団体を率いていたと考えられている。

ミサでの信者の献げ物については、教会の目的や共同体の益、貧しい人々のためにだけ用いるべきだとする教令が、彼に帰されている。死の詳細は分かっておらず、当時の平和な情勢から、おそらく自然死とされる。ローマ長官アルメニウスに殺害されたとする史料もある。長く殉教者とされてきたが、近年の歴史研究は自然死を示唆している。墓については、二つのカタコンベがウルバヌスという名の司教の遺体を収めており、どちらが教皇のものか判然としない。

ドイツのフランケン地方では、ブドウやワインの守護聖人として名高い。反対派の迫害を受けて、ブドウの木の陰に隠れたが矢に当たって殉教したからとも、難を逃れたため、死後ワインの守護聖人になると誓ったからともいわれる。聖杯や聖体皿に金、銀を用いることを制定したからという説もある。殉教日は5月25日である。5世紀ごろのラングレーの司教にも同名の人物がおり、こちらもブドウ園主から崇拝されたため、両者が混同されて、記念日が5月25日になったと考えられる。

この日には盛大な祭があり、聖人に扮した人物が馬に乗り、楽隊や農民と町を練り歩いて酒を飲みほし、酩酊したという。この祭は、ブドウの花でその年の豊作を占う農民の行事で、教会暦では認められておらず、教会や領主はしばしば禁止令を出し、1549年や1551年にも禁止されている。

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