伝記
プロコピウスは、4世紀のローマで皇帝ウァレンスに対して反乱を起こし、365年にコンスタンティノープルで皇帝を宣言された人物である。326年とも325年7月ともいわれる生年から、366年5月27日の没年までを生き、在位は365年から366年とされる。キリキアの良い家柄に生まれ、コリュコスの出身とされる。母方の祖父がユリウス・ユリアヌスであったことから、のちの皇帝ユリアヌスの従兄弟にあたる。
初めは皇帝コンスタンティウス2世のもとでトリブヌス・ミリトゥムを務め、長く護民官兼書記官の任にあったともいう。358年には、皇帝の信頼を得て使節の一人としてサーサーン朝の宮廷へ送られた。この経歴は多くの有力者との結びつきをもたらし、帝国政府の仕組みを知る機会にもなった。のちにはユリアヌスのもとでマギステル・ミリトゥムを務めた。ユリアヌスと同様に古代ギリシア・ローマの伝統宗教を信仰しており、特に親しい間柄だったという。363年のサーサーン朝との戦いでは、約3万の兵を率いて上部ティグリス川沿いの要地を守り、アルメニア王と協力して東方の防衛を固める役を任されたと伝えられる。
363年にユリアヌスが戦死すると、後継者に指名されていたという噂が流れるほど、プロコピウスはユリアヌスの後継者と見られていた。しかし将軍たちの主導権争いの妥協案としてヨウィアヌスが皇帝に選ばれると、競争者とみなされることを警戒し、自ら引退を願い出た。身を隠したのち、ユリアヌスの遺体をタルソスへ運んで葬る役を務め、その後家族とともにカッパドキアのカエサリアへ移った。ヨウィアヌスは間もなく没し、364年初頭にウァレンティニアヌス1世が選ばれ、実弟ウァレンスを共同皇帝として東方を任せた。ウァレンスは目立った経歴のない下級士官であり、その抜擢は正当性に乏しく、不人気な皇帝だった。そのためプロコピウスの人気を警戒して逮捕を命じた。
追っ手を差し向けられたプロコピウスは、いったん降伏したものの、家族に会いたいと願って見張りに酒食を振る舞い、その隙に家族とともに逃れ、黒海方面やタウリケ半島に身を潜めた。やがて恐れを抱えたまま都コンスタンティノープルへ向かい、ゴート人の守備隊に迎え入れられた。ウァレンスの舅である親衛隊長官ペトロニウスの政策への不満を知ると、都に滞在していた二個軍団を買収して都を掌握し、365年9月28日に元老院から皇帝と宣言された。その場にはコンスタンティウス2世の妻ファウスティナと娘コンスタンティアも同席しており、コンスタンティヌス家の正当な相続人と受け止められていたことをうかがわせる。プロコピウス自身も教養ある哲学者として振る舞い、東方のギリシア系貴族の支持を求めた。ゴート人の指導者から3000人の援軍を得て、瞬く間にトラキアとビテュニアを支配下におさめた。
ウァレンスは一時は打つ手を失い、講和も考えたが、立ち直って反撃に出た。ティアティラとナコレイアの会戦でプロコピウス軍は敗れ、プロコピウスは戦場を逃れてフリュギアの荒野をさまよったのち、二人の将軍アギロニウスとゴモアリウスの裏切りによって捕らえられた。366年5月27日、斬首によって処刑され、その首は兄ウァレンティニアヌス1世のもとへ送られた。その死後、支持者の一人マルケルスが皇帝を名乗って抵抗したが、同年中に捕らえられて処刑された。しばらくアタナリックがウァレンスと争ったが、369年に有利な条件が示されると、講和に応じた。
同じ年に亡くなった人物
- 聖マリヌス (366年没)
- 支遁 (366年没)
- リベリウス (ローマ教皇) (366年没)
- Serapion of Thmuis (366年(推定))
- アカキオス (366年(推定))
同じ地域に関係する人物
- Hegesias of Magnesia (紀元前200)
- クレオパトラ (紀元前307)
- アルタプレネス (紀元前492)
- Mutercim Rusdu Pasa (1882年没)
- エウナピオス (414年没)