伝記
カロンダスは、シチリアのカタニアの名高い立法者である。リュクルゴスやソロンとしばしば比べられ、ロクリスのザレウコスとともに、マグナ・グラエキア(南イタリアのギリシア植民地)の大立法者の一人とされる。生きた時代ははっきりせず、ピタゴラス(前580年頃から前504年)の弟子とみる説もあるが、確実にいえるのは、レギオンの僭主アナクシラス(前494年から前476年)より前の人物だということだけである。レギオンの人々はアナクシラスに廃止されるまで彼の法を用いていたからである。彼の法は、シチリアとイタリアの他のカルキス系植民地にも採用された。一方、前620年頃にカタニアで立法したともされる。
カロンダスはカタニアに生まれ、アリストテレスによれば社会的には中産階級に属した。当時のカタニアの政体は、おそらく寡頭政だった。彼の法はもともと韻文で書かれていたという。また、アリストテレスが非難するような貴族的な詭弁を一つ、その法に取り入れたらしい。アイリアノスによれば、彼は亡命を余儀なくされてレギオンに逃れ、そこへ自分の法を持ち込んだため、以後その都市でも法が用いられたという。
彼の法制はやがて、エウボイア島のカルキスから来た植民者がシチリアに建てた都市の多くに広まった。カタニアとレギオンのほか、ヒメラやレオンティノイにも存在した証拠が見つかっている。ディオドロスによれば、トゥリオイでも用いられ、暗記されて祭りの折に朗読されたらしい。アリストテレスは、偽証に対する訴訟を設けた点を除けば特別なものはないとしながらも、法の作りの精密さは高く評価している。プラトンも『国家』で好意的に語る。罰金の額を、罪を問われた者の社会的地位に応じて定めたともいわれる。また、女子相続人(エピクレロス)に最も近い親族が彼女との結婚を望まない場合は、持参金を出さなければならないと命じたとされる。
ディオドロスは多数の法を、トゥリオイの立法者としてのカロンダスのものとして伝えている。ただしそれらや、ストバイオスが引く断片は、実際にはピタゴラス派や、トゥリオイの建設に加わった哲学者プロタゴラスの作で、後世(新ピタゴラス派)のものとされる。トゥリオイの法は、古い時代の立法とは考えられない。ヘレニズム時代には、カロンダスの法制の名声は確固たるものになった。法はシチリアの外へも広がり、アンティゴノス1世の働きかけでテオスとレベドスに、またカッパドキアのマザカにも適用された。コス島に住んだ詩人ヘロンダスが『ミモス』で彼の法に触れているのは、その人気の目安になる。
死についての話も伝わる。ヴァレリウス・マクシムスによれば、彼は剣を帯びたまま民会に入ったことで、自ら定めた法を破ったことになり、その場で剣を抜いて自分の体に突き立てたという。しかし同じ話はシュラクサイのディオクレスやザレウコスにも語られ、真偽は疑わしい。前427年から前424年にかけて、シチリアのカルキス系諸都市はシュラクサイの脅威に対抗して政治的に結束した。レオンティノイのゴルギアスが率いる共同の使節団を送ってアテナイの援軍を得、シュラクサイ勢を退けたが、この同盟は長続きせず、2年後にはレオンティノイで内戦が起こってシュラクサイに町を奪われた。こうした都市間の近さと国際情勢が、死の逸話をシュラクサイの立法者ディオクレスに移し替えさせたのかもしれないと説明されている。
同じ年に亡くなった人物
- シキュオンのクレイステネス (紀元前 600年(推定))
- Nitokris II (紀元前600)
- Arcesilaus II of Cyrene (紀元前600)
- サモスのアシオス (紀元前 600年(推定))
- Battus I of Cyrene (紀元前600)
同じ地域に関係する人物
- ヘロドトス (紀元前420年代没)
- アレクサンドロス1世 (エピロス王) (紀元前331年没)
- イザベル・ダラゴン (1271年没)
- アラリック1世 (410年没)
- ジョアッキーノ・グレコ (1630年代没)