伝記
義浄は、唐代の僧で、インドに赴いて仏典を持ち帰り、多くを漢訳した人物である。俗姓は張、字は文明といい、635年に斉州(山東省)に生まれたとされる。唐代の僧の中では、ナーランダ僧院で学んだ一人として知られる。幼くして出家し、7歳で沙弥の誓いを立てて地元の寺に入ったともいわれる。善遇や慧智に学び、とくに慧智のもとでは、南山宗を開いた道宣の教えを受け継ぐ律を深く学んだ。15歳のとき、649年に西域へ赴くことを志し、法顕や玄奘の足跡を慕っていたという。インドのナーランダで学ぶ資金は、フォンという施主が出したとされる。667年ごろには長安に出た。玄奘のインド旅行が、まだ人々の話題であった時期である。
671年、37歳で番禺を同志数十名と出発する予定だったが、他の者はみな辞退したため、義浄は一人で海路インドへ向かうことになった。広州から波斯の船に乗って南の島々へ向かい、22日でシュリーヴィジャヤのパレンバンに着いたとも伝わる。同行した僧は間もなく島で亡くなった。義浄はそこで半年ほどサンスクリットの文法とマレー語を学んだ。その後マレーやケダなどの国々を訪ね、673年には、10日の航海でいわゆる裸の人々の国に着いた。マレー系の人々を指す古い中国語で崑崙と呼ばれた人々についても、見聞を書き留めている。673年にインドに到着し、東海岸の港タームラリプティに1年とどまってサンスクリットを学んだ。ナーランダへの途上、病で歩けなくなって一行に取り残され、盗賊に身ぐるみを剥がされたが、泥と葉を身に塗って何とかたどり着いたとされる。インドには14年滞在し、そのうち10年をナーランダ僧院で過ごしたという。11年とする記録もある。
帰路も海路で、687年にシュリーヴィジャヤに立ち寄った。当時のパレンバンは仏教の中心で、各地の学僧が集まっており、義浄は2年間とどまってサンスクリットの経典の漢訳を進めた。689年には、現地に紙と墨が乏しかったため、いったん広州に戻って調達し、同じ年に再びこの地へ戻った。695年(証聖元年)に洛陽に帰国した。25年間に30余国を巡り、サンスクリットの経律論400部、50万頌、金剛座、舎利300粒などを持ち帰った。
武則天は自ら洛陽の上東門の外に出迎え、勅によって仏授記寺に迎え入れた。以後、仏典の漢訳に携わる。訳経は国家事業として洛陽・長安の大寺や内道場で行われ、実叉難陀、阿儞真那、波崙ら西域から来た僧が訳経を担当した。武則天自らが序文を著している。漢訳された経典は56部230巻に及ぶ。703年には『金光明最勝王経』、710年にはアヴァダーナ(偉業の物語)の訳出にあたったとされる。訳した経典は60部を超えるとする説もある。
著作には『南海寄帰内法伝』と『大唐西域求法高僧伝』があり、当時のインドや中国の仏教研究、またインドや東南アジアの社会状況を知る貴重な史料となっている。義浄はシュリーヴィジャヤの仏教学の水準を称え、中国の僧に、遠いナーランダまで行かずそこで学ぶことを勧めた。東南アジアの島々で仏教が盛んであることも書き残している。ジャワの訶陵国は、ボガの都の東、海路で5日ほどの距離にあるとも記した。713年(先天2年)に79歳で亡くなった。僧としての年数を示す法臘は59であった。『宋高僧伝』巻1に伝がある。仁木英之による小説『海遊記 義浄西征伝』も書かれた。
同じ年に亡くなった人物
- 慧能 (713年没)
- アリー・ザイヌルアービディーン (713年没)
- ウルワ・ブン・ズバイル (713年没)
- アナス・ブン・マーリク (713年)
- 太平公主 (713年没)