伝記
薛濤は、中国唐代中期の妓女・詩人である。字は洪度。生年は768年とも770年ともされ、没年は831年とも832年ともいわれる。魚玄機と並んで詩妓の双璧と称され、唐代の四大女流詩人の一人に数えられることもある。
長安に生まれた。父は薛鄖といい、下級の役人であった。幼いころから詩の才があり、8歳ごろ、父が「庭除に古桐あり、聳幹雲中に入る」と詠んだところ、「枝は南北の鳥を迎え、葉は往来の風を送る」と即座に続けたという伝説がある。詩を作りはじめたのは7歳か9歳のころともいわれる。父の赴任にともなって成都へ移ったが、14、15歳のころ任地で父が亡くなった。家は貧しく、母は寡婦となり、17、18歳ごろまでには楽籍に入って妓女となった。16歳で妓女になったともいわれ、生計のためで、母を養う目的もあったかもしれないとされる。機知と詩才によって次第に名を知られるようになった。
剣南西川節度使の韋皋に詩才を認められ、その屋敷に召されて酒宴に侍り、詩を作って女校書と呼ばれた。韋皋の公式の接待役となったともいう。この立場で元稹ら詩人たちと出会い、とくに元稹と親しかったと伝えられ、恋愛関係にあったともいわれる。807年に武元衡が節度使になると、薛濤は二首の詩を献じた。感心した武元衡は、校書郎に任ずるよう皇帝に願い出た。女性で、しかも官妓である者についての異例の請願であり、官職は与えられなかったが、薛濤は「女校書」の名で知られるようになり、のちにこの語は才ある妓女をさすようになった。浣花渓に住み、白居易、元稹、牛僧孺、令狐楚、張籍、杜牧、劉禹錫らと詩を唱和し、名妓として知られた。王建は、その才能をたたえる詩を作っている。元稹や白居易、劉禹錫らがその詩を称えたともいわれる。薛濤にかかわるものとして、段文昌の墓誌が残されている。
晩年は市外で独立して暮らし、碧鶏坊に住んで吟詩楼を建てた。その住まいは、先の時代の大詩人杜甫にゆかりの地とされる場所であった。貧しさと孤独のうちに生涯を終えたとも伝えられる。道士の衣をまとったという記録もあり、唐の社会では比較的自立した身分を示すものと受け取られている。深紅の小さな彩りを施した詩箋を作り、これは「薛濤箋」と呼ばれて持てはやされた。携帯しやすく、詩想をすぐ書き留められる小さな便箋であったという。詩を書くための紙を作って自活したと記す記録もある。中唐から晩唐にかけて文人の机上の品となったが、明代にはその製法はほぼ失われ、蜀王が貢ぎ物として明の宮廷に納めたこともあるという。書にも優れ、王羲之の書法を学んだ書家として認められ、その一片は宋の宮廷に秘蔵されていたとされる。北宋の『宣和書譜』は、その書を女性らしくなく筆力があると評した。
詩はおよそ5000首が『錦江集』にまとめられ、14世紀まで伝わったというが、現存するのは約90首で、唐代の女性としては最も多い。張為の『詩人主客図』は薛濤の詩を「清奇雅正」と評し、元の辛文房は「情は筆墨をつくし、翰苑崇高」とした。清の『四庫提要』は「籌辺楼」の詩に、市井の女性には珍しい憂国の情を見いだしている。一方、現代の胡雲翼は、技巧は熟練しているが率直な感情の表出に欠けると述べた。社交が仕事であったため、芸術家というより職人に徹した作風になるのは避けがたかったとも考えられている。金星のクレーターの一つは、彼女の名にちなむ。
同じ年に亡くなった人物
- 元稹 (831年没)
- オベレリオ・アンテノレオ (831年)
- ズバイダ (831年)
- オムルタグ (831年没)
- アブドゥルマリク・イブン・クレイブ・アルアスマイ (831年没)