伝記
ティマイオスは、古代ギリシアの歴史家である。シチリア東部のタウロメニオン(現在のタオルミーナ)に、富裕で有力なギリシア人の家に生まれた。生年は紀元前356年とも350年ともいわれる。父アンドロマコスは領主で、紀元前358年に、ディオニュシオス1世に破壊されたナクソスの旧住民を集めてタウロメニオンを再建し、ティモレオンの支援のもとで統治したとされる。
紀元前316年より後、おそらく315年か312年に、シュラクサイの僭主アガトクレスによってシチリアから追放されたと伝えられる。僭主がタウロメニオンを奪ったのちの、ティマイオスの敵意が原因だったかもしれないという。若くして自ら島を離れたとする学者もいるが、研究者の多くは310年代に追われたとみている。以後、少なくとも50年をアテナイで過ごした。アガトクレスの死(紀元前289年)の後も故郷に戻らなかったとする説もあれば、ヒエロン2世の治世に帰郷した可能性を説く説もあり、はっきりしない。イソクラテスの弟子ミレトスのフィリスコスに学んだともいうが、確かではなく、のちにイソクラテスの文体と結びつけようとして生まれた話かもしれない。没年は紀元前264年の少しあと、おそらく260年ごろとされ、偽ルキアノスは96歳に達したと述べている。
アテナイで、西方ギリシア世界の歴史を紀元前289年まで記した書と、ピュロス王の戦争を紀元前264年まで記した書を著した。大作『歴史』は38巻からなり、ギリシアの最初期から第一次ポエニ戦争にいたる歴史を扱う。イタリアとシチリアの初期、シチリア単独、シチリアとギリシアの歴史に不均等に分かれ、最後の5巻はアガトクレスの時代を詳しく述べる。ローマ人がシチリアに渡る紀元前264年より前に終わったとみられる。ピュロスを扱った別の書は、ローマとの戦いを中心に据えていたことがほぼ確実とされる。また、年代の整理に力を注ぎ、オリンピア紀による年代算定を導入した。そのため、アテナイのアルコン、スパルタのエフォロス、アルゴスの女神官の就任年を用いた。日常生活では使われなかったが、のちのギリシアの歴史家に広く用いられた。ローマ共和国の台頭に最初に気づいた人物ともいわれるが、ローマを味方と見たか敵と見たかは分からない。
後世の評価は厳しかった。とりわけポリュビオスは強く批判し、先人への不公正さから「エピティマイオス(あら探し屋)」とあだ名された。軍事の経験も、描いた土地の知識もない書斎の人と描かれ、個人的な感情から真実を曲げたとの非難が最も重かった。ディオニュシオス1世とアガトクレスには不公平で、お気に入りのティモレオンは称賛したという。神話を合理的に解釈せず素朴な形で伝えようとしたことや、些末な細部を好んだことから「老婆の寄せ集め」とも呼ばれたらしい。一方でポリュビオスさえ、利用できる資料を残らず調べたことは認めた。ディオニュシオス(ハリカルナッソス)と偽ロンギノスは彼を「冷たい」文章の典型としたが、後者は有能な書き手とは認めた。キケロは熱心な読者で、内容の豊富さと表現の多様さを称えた。トログス、ディオドロス、プルタルコス(『ティモレオン伝』)の主要な典拠でもあった。古代が終わると、この精巧な作品の大部分は伝わらなくなり、『歴史』第38巻の断片や、ピュロス王を扱った書の改作などがわずかに残るにとどまる。シリアの都市と王の歴史や、オリンピア競技の勝者を並べた年表風の書も、断片的に伝わるという。
同じ年に亡くなった人物
- テオクリトス (紀元前 259年)
- ピロコロス (紀元前259)
- メニッポス (紀元前 259年)
- ゼノドトス (紀元前259)
- タレントゥムのレオニダス (紀元前 259年)
同じ地域に関係する人物
- ヒエロン2世 (紀元前215年没)
- マリア (シチリア女王) (1401年没)
- エウリュメドン (将軍) (紀元前413年没)
- シュラクサイのディオン (紀元前354年没)
- ミヒール・デ・ロイテル (1676年没)