伝記
ブランカ・デ・ボルボーンは、カスティーリャ王ペドロ1世の、教会法に照らして正当とされた最初の王妃である。フランス語名はブランシュ・ド・ブルボンという。1339年、フランスのブルボン公ピエール1世と、妃イザベル・ド・ヴァロワの娘としてヴァンセンヌで生まれた。兄にブルボン公ルイ2世、姉(妹とも)にフランス王妃ジャンヌがいる。
ペドロ1世は、はじめイングランド王女との結婚が交渉されていたが、1348年、婚約のためカスティーリャへ向かった王女ジョーンがバイヨンヌでペストにより病死し、イングランドとの同盟は白紙となった。一方、16歳で即位したペドロ1世は、異母兄エンリケ・デ・トラスタマラとの戦いに苦戦しており、軍事だけでなく経済の支援も見込めるフランスとの関係を求めた。王太后マリア・デ・ポルトゥガルと宰相フアン・アルフォンソ・デ・アルブルケルケもフランスとの関係強化を望み。1351年、バリャドリッドの宮廷でフランス大使が関係樹立に同意し、妃候補としてブランカが選ばれた。1352年7月2日に同盟条約が結ばれ、フランス王ジャン2世は、ブランカの持参金として30万フローリン金貨の支払いを誓った。
ブランカ自身は結婚を望まなかったが、父や兄、ジャン2世、姉ジャンヌに受け入れるよう強いられたという。ジャン2世が最初の支払いに手間取ったため、旅立ちは7か月も遅れ、途中で立ち寄ったアヴィニョンでは教皇インノケンティウス6世が、彼女のただ一人の庇護者となった。1353年1月にバルセロナ、2月にバリャドリッドへ着いたが、支払われるはずの25,000フローリンが届いておらず、ペドロは結婚の延期を決めた。このころペドロはすでにマリア・デ・パディーリャを寵愛し、長女をもうけていた。延期の理由をマリアへの愛とみる歴史家は多いが、支払いの遅れが理由だったとの見方もある。王太后と宰相の圧力を受けたペドロは式に同意し、1353年6月3日、バリャドリッドで結婚式が行われた。しかし式の2日後、王はブランカを捨て、二度と会おうとしなかった。教皇は妻を迎えるよう王に説いたが、王は結婚を続けられないと突っぱねた。
王妃を捨てたことが、カスティーリャの血なまぐさい内戦のきっかけになったといわれる。エンリケ側には見返りを望む大勢の貴族に加え、アラゴン王子のフェルナンドとフアンの兄弟、宰相アルブルケルケ、王母マリアまでもが加わり、ペドロ1世は一時捕虜となった。ブランカは捨てられた後、王母とメディナ=シドニアで過ごし、内戦が始まるとアレバロ、次いでトレドのアルカサルへ移された。そこで教皇に窮状を訴える手紙を送ると、これをきっかけにトレド市民が蜂起し、多くの貴族がブランカのもとに集まった。ブランカはアルカサルを出て大聖堂へ避難した。
1355年から1359年の間、ブランカはシグエンサ城に幽閉された。その後ヘレス・デ・ラ・フロンテーラへ移された。アラゴン王子たちに約束した領地を与えなかったペドロ1世が、彼らにブランカを利用されるのを恐れたためとされる。教皇は解放を求める努力を続けたが、1361年、ブランカはヘレスへ移されてまもなく、22歳で急死した。ヘレスのサン・フランシスコ修道院に埋葬してほしいと聖職者に告げた直後の死だったため、自然死だったとされる。一方で、ペドロ1世の命令で殺害されたという説もあり。故国のジャン2世も父ピエール1世も彼女を思い返すことはなく、ただ兄のルイ2世だけが妹の報復を望み、彼女の死の5年後、カスティーリャへ拡大した百年戦争の遠征を行った。
同じ年に亡くなった人物
- ヘンリー・オブ・グロスモント (初代ランカスター公) (1361年没)
- フィリップ1世 (ブルゴーニュ公) (1361年没)
- ナースィル・ハサン (1361年没)
- ヨハネス・タウラー (1361年)
- ルートヴィヒ5世 (バイエルン公) (1361年没)
同じ地域に関係する人物
- アブー・ユースフ・ヤアクーブ (1286年没)
- バルトロメ・エステバン・ムリーリョ (1682年没)
- フランシスコ・デ・ミランダ (1816年没)
- アルフォンソ11世 (カスティーリャ王) (1350年没)
- ホセ・デ・ラ・セルナ (1832年没)